きょうのインデックスは… 武田二十四将
武田二十四将とは、戦国武将、武田信玄・勝頼の率いる甲州軍団を支え、
合戦のときには、配下の武士達の先頭に立って指揮し、戦った武将達のことです。
紙本著色武田二十四将図
この武田二十四将は、信玄・勝頼を支えた実在の人物で構成されていますが、
フィクションの面もあります。
それは、この武田二十四将が、
同じ時期に活躍した武将ではなく、信玄・勝頼二代にわたって仕えた人々の総称なのです。
しかも、戦国の時代といわれる当時から「二十四将」と呼ばれていたわけではないんです。
江戸時代にベストセラーとなった「甲陽軍艦」の影響で、武田家を題材とした浄瑠璃や歌舞伎が話題に。甲州軍団が一躍有名となり、彼らの中から24人を選抜して絵を描くことが流行しました。
これが武田二十四将というわけです。
24人は絵を描いた人によって異なり、登場した武将の合計は50人を超えるとも言われています。
武田二十四将図(鳥居清信)
この二十四将の武将たちは、恵まれない環境で育った者が多いことを知っていますか。
百姓からの出身者、他国からの放浪者、人質だった者もいるんです。
信玄は、身分や境遇などによる差別はせず、才能さえあれば重要なポストへ登用していました。
この方針は不遇な境遇の者には大きな励みとなり、信玄に恩義を感じ、自分の能力と命を最大限に生かしました。
ですが、信玄が生まれ育った武田家は伝統的な名家だったことから、昔からの重臣たちの意見の尊重が必要で、当初信玄は自分の思うような人材登用が出来なかったのです。
そこで信玄は、まず、その重臣たちが推薦する人物を家臣にしました。
そして次に一生を長男の下で過ごすか、養子に行かねばならぬ境遇にあった彼ら重臣の子弟にも注目。
また百姓出身の者を、今でいう秘書に相当する小姓(こしょう)・近習(きんじゅ)に登用し、
教育と訓練を施したうえ、実戦に参加させ実績を積ませていきました。
そして功績を挙げた者を家臣の末席に加えました。
その結果、やがて信玄が育成した家臣が多くを占めるようになり、政権運営は自らの意志どおりとなっていたのです。
さて、山梨県に春を告げるお祭り「信玄公祭り」が来月6日(金)~8日(日)までの3日間
開かれます。
今年で41回目となるお祭りは、信玄公役に「沢村一樹」さんを、山本勘助役に「伊吹吾郎」さんを迎え、「奮い立たせよ!日本の魂」をテーマに開かれます。
2日目の7日(土)に行われる、鎧武者1500人もの甲州軍団出陣パレードは圧巻です。
その他山梨県内各地で武田信玄の命日である4月12日を中心に、その遺徳をしのぶ様々な
お祭りが取り行われます。
天下統一された後もなお江戸の世で語り継がれた武田二十四将。
才能を生かせる環境が武田家を繁栄させていったのですね
「やまなしINDEX」を放送後にホームページでもお聞きいただけます。
是非お楽しみ下さい!