2011年2月アーカイブ

きょうのインデックスは・・・ 「ほうとう」



幅広の麺に、季節の野菜がたっぷり入った、味噌仕立ての「ほうとう」。
山梨を代表する郷土料理です。

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この「ほうとう」、麺料理では珍しい製法で、通常・うどんなどは別茹でしますが、「ほうとう」は野菜などを煮込んだ鍋に、生の麺を直接入れます。そうすることによって、独特のとろみが生まれます。

小麦粉の生地をのして、そのまま鍋に入れるので「のし込み」や「のし入れ」また「煮込み」と呼ぶ地域もあるそうです。


さて「ほうとう」の起源ですが、諸説ありまして、
平安時代に中国から伝えられた食べ物「はくたく」が訛って「ほうとう」になったという説や、
戦国時代、武田信玄が戦で兵士の士気を高めるために考えた陣中食だったという説。
信玄が、凶作で苦しんだ農民のために推奨した食べ物で、具材を切るために自らの宝の刀=宝刀を使ったことから、この名がついたという言い伝えもあるようです。

また、平安時代の清少納言の随筆「枕草子」には「はうたう参らせむ=ほうとうを差し上げたい」という表現で、「ほうとう」という麦を使った料理が登場しています。


お米が高価だったことや、山間部ではお米があまり採れなかったので、二毛作で収穫された小麦粉が日常食となり「ほうとう」などの粉もの文化が定着したようです。
「麺をのして鍋に放り込む」という効率の良い調理法は、忙しい農家のお嫁さんを助け、母から娘、
姑から嫁に伝えられてきましたhappy01

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山梨でB級グルメといえば「甲府とりもつ」が有名になりましたが、地元で採れた野菜などをふんだんに使って、今なお県民に愛される「ほうとう」は元祖B級グルメといえるのではないでしょうか?

このtwoつの相乗効果で、地域の活性や全国への普及に繋がっていくといいですよね。


最近ではなかなかhouse家庭でほうとうを打つ機会が少なくなっていると思いますが、
是非ほうとう造りに挑戦して、地産地消や郷土料理の伝承を実践してみて欲しと思います。


寒い時にはさらにおいしく感じる「ほうとう」。
きょうの晩ご飯に「ほうとう」はいかがでしょうかhappy01? 

きょうのインデックスは・・・「甲州小梅」



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春に近づき、梅の花もだんだん見頃を迎えていますねhappy01

果実としての“梅”といえば、紀州・和歌山県をイメージするでしょうか?
実際、平成21年の収穫量は、やはり和歌山県が1位で国のおよそ6割を占め、山梨県は7位でした。
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山梨の“梅”の歴史ですが、1800年代に発行された『甲斐国志』によると、19世紀には、“小梅”が世に出ていたことがわかります。また、武田信玄にちなんだ伝説などが残る樹齢数百年を経た古木が県内各地にあって、“梅”栽培の歴史は古いようです。
しかし海の無い山梨は、塩の入手が困難だったので、日本人の食生活に欠かせなかった“梅干し”の生産が発展することはなく、本格的な栽培には至りませんでした。

栽培が本格化したのはbus国鉄の中央線が開通した明治36年以降。
そして太平洋戦争の時には軍の調達に応えて盛んに栽培量が増加していったそうです。

また健康食品ブームにより、平成2年には収穫量が4,000tもありましたが、現在、収穫量は減少傾向にあります。


山梨の梅と言えば「甲州小梅」ですよね。
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「甲州小梅」は、1個4~6グラム程度と小さく、味がよいという特徴から、梅づけ梅干しが多く作られています。また、梅酒・ワイン・ジャムなどにも加工されています。


県内でも梅の栽培が盛んな甲斐市にある「農事組合法人ゆうのう敷島」は、地元農家からなる法人で、「梅の里」と呼ばれる大規模な畑での梅の栽培や、梅の加工品の生産を行っています。


また、すぐ近所には同じ組織が運営するクラインガルテンもあります。
クラインガルテンとは、農地を持たない人たちが自家消費を目的に、野菜や花を育てる市民農園のことで、クラインガルテンの皆さんが梅の里で収穫体験をすることもあるそうです。
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「甲斐敷島 梅の里クラインガルテン」のホームページはこちらです。


県内では、大小さまざまなクラインガルテンが整備されていて、県でも、増加する耕作放棄地の有効活用として、このような市民農園の整備を推進しています。

また、「甲州小梅」は、県が普及を奨励している「推奨品種」となっています。


花は美しく、食べておいしい甲州小梅。
地元の特産品の栽培を通して、耕作放棄地の解消にもつながればいいですよねconfident

きょうのインデックスは・・・「水かけ菜」


皆さん召し上がったことはありますか?
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桂川流域の都留市周辺で明治からお米などの裏作として栽培されている冬野菜です。

収穫の終わった田んぼに、10月から種をまいて、最低気温が氷点下近くなる11月下旬に、畝に水を引き込みます。そして収穫は12月下旬から2月下旬まで続きます。
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fuji富士の湧水も流れる桂川は、冬場でも水量が豊富で水温も10~12℃を保っているので、冬の寒さが厳しいこの地域で貴重な青物野菜の栽培が可能になっています。

昭和60年頃には都留市の各地で盛んに栽培されていましたが、現在栽培が行われているのは市内でも十日市場地区だけとなっています。こちらでは平成の名水百選にも選ばれた湧水を利用しているそうです。
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「水かけ菜」は、小松菜に似ていますが、小松菜より大きく、葉っぱはカブに似ています。

“葉っぱに霜が2、3度あたると甘みが増す”といわれていて、外気温と水温の差が大きくなると甘みを増すということです。
また、各種ビタミンやミネラルが豊富に含まれていて、特にビタミンCは、100グラムあたり約80ミリグラム程度含まれるといわれ、キャベツのtwo倍も含まれています。

味わいですが、繊維が柔らかく、甘みを持ち、地元では正月の雑煮には欠かせない食材で、大鍋に
ウドンと一緒に煮込んで食べるのが一般的なんだそうです。

最近では、都留市商工会が中心となって「水かけ菜」の粉末を練りこんだニョッキを売り出したり、
都留文科大学の学生が、茹でてすり潰した「水かけ菜」を小麦粉に練りこんで、鮮やかな緑色のウドンを開発したりしています。
おいしそう・・・lovely
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この「水かけ菜」ウドンは都留市戸沢の「カフェかたつむり」で予約をすると味わえるそうです。


山梨県内には、「水かけ菜」以外にも、甲斐市の「やはたいも」、早川町の「茂倉(もぐら)うり」
市川三郷町の「大塚にんじん」などの特産・伝統野菜があります。
しかし、近年、農家の高齢化や減少によりその生産量なども危ぶまれています。

「水かけ菜」についても同じで、このような状況を受けschool都留文科大学では、授業の一環で、地域の
特産品の付加価値を高めて広くアピールし、販路開拓の研究などを目的に、学生が「水かけ菜」を栽培しています。
また、地元農家が栽培した「水かけ菜」を一畝(一通り)単位で購入して、収穫体験ができる
オーナー制度も人気があるそうです。


県では、“地元で採れた農畜産物を地元で消費する”地産地消を推進しています。
顔が見えるって安心ですよね。またそこからの人のつながりも大切にしたいですねconfident


凛とした冷たい空気の中、富士の湧水で育った「水かけ菜」。
味わうことができるのもあと少しです。皆さんも是非賞味くださいhappy01

きょうのインデックスは…「北海道にある山梨」



みなさん、北海道に「山梨」と名の付く地名があるのをご存じでしょうか?

例えば、ちょっと調べるだけで、

「北海道 虻田郡(あぶたぐん) 倶知安町(くっちゃんちょう) 山梨」、
「虻田郡 豊浦(とようら)町(ちょう) 山梨」、
「余市郡 赤井川村(あかいがわむら) 山梨」

・・・と、いくつもの「山梨」地名が出てきます。


なぜ、ほかの県の地名が北海道にあるんでしょう?

他県の地名が北海道内にできたのは、明治時代の開拓の時です。
北海道には、本州各地から募った入植者が大勢やってきて、道内の各地で、原野を切り開いて開拓しました。山梨からも数十人、数百人規模で集団移住し、集落を形成しました。
こうして、出身地を地名とした例が、道内各地で見られるようになったわけです。

先ほどの「北海道 倶知安町 山梨」や「赤井川村 山梨」は、山梨県から北海道に開拓のため移り住んだ人々による集落なんです。また、「虻田郡 京極町(きょうごくちょう)」には「甲斐」という地名も残っています。興味深いですねconfident


明治時代は、北海道本土だけでなく、北方四島と千島列島の開拓も進められた時代でした。(まず、明治2年(1869年)に「開拓使」という役所を置くと同時に、それまでの「蝦夷地」という地名から「北海道」に改名しています。明治4年には、「屯田兵」制度を導入、道内各地や北方四島に配置しました。)

北方領土は山梨の面積よりも広く、wave近海は世界三大漁場の一つに数えられ、(択捉島や、国後島、色丹島などでの)漁業に目を向け、転住した人も多かったといいます。


この北方領土、2月は「北方領土返還運動全国強調月間」に当たります。
北方領土は昔から、他国の領土になった事のない日本固有の領土。
1855年の2月7日、日本とロシアの間で日露通好条約を締結し、国交成立しましたが、その際、
「択捉島までは日本領、ウルップ島からはロシア領」という国境が確定しています。

しかし、1945年(昭和20年)終戦直後(の8月28日 ~ 9月5日の間に、終戦直後)の混乱に乗じて、ソ連軍が北方四島に攻め込み、そこに住んでいた17,000人余りの日本人を追い出して占領しました。(北海道には、開拓で移住した人がいる一方で、強制的に移住せざるを得なかった人々もいるんですね。)

もちろん、これは、国際的に認められているものではなく、サンフランシスコ平和条約でも、日本が、
千島列島と南樺太を手放すことは決められましたが、北方四島については日本固有の領土だということに変わりはありません。 

ロシアの実効支配が続く状態で60年以上経ちますが、日本政府は、ロシア政府に対し、粘り強く領土返還交渉を続けています。
国では解決に向けた「外交交渉」を行っていますが、国が頑張るだけでは、交渉は上手く進みません。「日本国民は、北方領土の返還を諦めていない」ということを、ロシアをはじめ、諸外国に示すためにも、全国民の後押しが必要になります。


毎年、2月7日は、北方領土の日。山梨県でも啓発活動を行って返還運動を盛り上げています。
「領土問題は北海道のこと」とか、「私には関係のないこと」などとは考えずに、まず関心を持ち続けてほしいと思います。
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