きょうのインデックスは・・・「甲斐絹(かいき)」
「甲斐の国の絹」と書いて「かいき」。山梨の伝統織物です。
「甲斐絹」は、非常に軽く、薄手の生地でありながら腰があって、玉虫色のように輝く独特の光沢と、サラッとした風合いで、羽織の裏地に用いられる高級絹織物として、江戸時代から昭和初期にかけて、郡内地域で盛んに生産されてきました。
そのような風合いは、「絹100%」や「先染め」であること、また「先練り(さきねり)」といわれる、織る前に、糸に付着したセリシンというタンパク質を除去したり、「無撚り(むより)」、これは通常、糸を強化するための糸のねじり合わせを行わないこと、などによって醸し出されます。
非常に高い技術が要求される織物なんだそうです。
京都などで商業文化が花開いた元禄(1688-1704)の頃になると、絹織物の需要はさら増えて、郡内の織物は井原西鶴の『浮世草子・好色一代男』にも名前が出るほどに!
京都では『にせ郡内』と呼ばれる模造品まで出現するほど人気だったといわれています
そして明治に入ると、「甲斐絹」は質・量ともに最盛期を迎えます。
昭和初期まで安定生産期が続きますが、第二次世界大戦を境に生産額は激減、ファッションの変化や化学繊維の需要が増えたこともあって、「甲斐絹」は1940年代以降、姿を消していきました
さて、甲斐絹のルーツですが、いまからおよそ400年前に行われた南蛮貿易の中で、日本にもたらされた織物・糸類の中の『海気(かいき)』と呼ばれているものがルーツといわれています。郡内地域では明治30年代頃までこの「海気」という字を使用していそうです。
甲斐国の絹という字を使うようになったのは、一説によると、初代県知事「藤村紫朗」氏が、「海気」の生産が殆ど甲斐の国で行われ、特産品であったことから、現在の文字を付けたという説もあります。
この、甲斐絹にまつわる伝説として、「徐福伝説」というがものがあるのをご存じでしょうか?
紀元前3世紀頃、秦の始皇帝の命によって、徐福は、若い男女を数多く従え、日本の不死(富士)の霊山の麓に、不老不死の薬を求めて、現在の富士吉田市大明見に入って、薬を探しました。しかし、その薬は見つからず、この地に定住し、徐福らが養蚕・機織りの技術をこの地の人々に教えたというものです。
「甲斐絹」が姿を消した戦後、甲斐絹の高い技術を生かして、傘地、裏地などを生産し、近年は、ネクタイや、婦人服など、高品質でバラエティーに富んだ製品を生み出しています。中でもネクタイ地の生産量は、国産品の4割を占め日本一です。
また、失われた「甲斐絹」を復活させる取り組みが、富士北麓地域の織物職人のみなさんの手によって行なわれています。
これまでは、国内外の有名ブランドの受注生産が中心でしたが、近年は、織物組合や企業が独自のブランドを立ち上げて、製品を開発し販路を開拓する動きが活発になっています。
さらに、産地の若手が、東京造形大学の学生とコラボした商品開発や異業種(ジュエリーやニット)の若手とともにデザインゼミを実施するなどの新しい動きもあります。
このような中、県では、国内外の販路拡大を支援するととともに、富士工業センターを通じて新技術やデザインの開発などの支援を行なって郡内地域の織物産業を守っています。
今年、2月28日~3月2日には、ネクタイ日本一の産地をアピールするため「やまなしネクタイフェア」を東京で開催てし、トレンドを意識した新しいネクタイを提案するそうです。
今後もどんな商品が誕生するか楽しみですね
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