今日のインデックスは・・・「市河文書」(いちかわ・もんじょ)。
「市河文書」とは、市河家に伝わる戦国時代の手紙のことです。
歴史上たいへん注目される古文書なんですが、なぜかといいますと・・・
それは、存在そのものが謎に包まれていた山本勘助に関係しているからなんです。
山本勘助像(狩野了承筆)江戸時代 山梨県立博物館所蔵
キーパーソンは、「市河 藤若(いちかわ とうじゃく)」という人物。
市河藤若は、戦国時代の北信濃の武将。
市河家は元々、甲斐の国の武家で、鎌倉時代に北信濃に渡り、その地の豪族として繁栄しました。
同じ頃、甲斐国守護であった武田信玄は、信濃侵攻を本格化させ、
天文年間には(=16世紀半ば=戦国時代半ば)善光寺平より南を制圧するとともに、北信濃へ進出を始めました。
武田家による北信濃進出により、この地域の豪族を守っていた越後の上杉謙信と、川中島合戦を繰り広げることになります。
武田軍は、北信濃の豪族を攻略し、市河家も武田側に帰属しました。
武田家に仕えた武将・山本勘助。
「武田流兵法」を創り、「啄木鳥の戦法」を計画、進言したとされている名軍師として有名ですよね。
しかし、歴史上、山本勘助の名は、江戸時代に書かれた軍学書の『甲陽軍鑑』にしか登場がなく、
「架空の人物である」という説が有力だったのですが、昭和の半ばに、この説がくつがえります。
昭和44年、北海道に渡っていた市河家に伝わる文書=手紙の中に、武田信玄が、市河藤若に宛てた手紙が発見されました。
冒頭に登場したキーパーソンです。
その内容は・・・
弘治3年(1557年)6月23日付けで、藤若の忠節を褒め称えるとともに、周囲の軍事情勢を知らせるもので、手紙の最後は、「なお 山本菅助 口上あるべく候(そうろう)」(【猶可有山本菅助口上候】)と結ばれていました。
この意味は、「詳しくは山本菅助を使者として送る」ということです。
そこに「山本かんすけ」の名が記されていたんです!
この文書の発見によって、「信玄の近くに仕えた者の中に、存在したことは事実らしい」という説が有力になりました。
信玄が市河藤若に宛てた書状(山梨県立博物館所蔵)
山梨県立博物館では、去年、市河家に伝わる古文書を収蔵。
この中には、武田信玄が「山本菅助」と記した文書も含まれています。
笛吹市御坂町にある県立博物館では、来月7月5日(月)まで
「シンボル展・実在した山本菅助」の特別展示を開催しています。
この展示では、新発見の「市河文書」などを中心に、戦国時代から江戸時代を生き抜いた山本菅助と、その一族の軌跡を紹介しています。
展示資料の中には、新たに発見された、信玄が直接「山本菅介」に出した文書もあり、幻とされた菅助の実像が明らかになりつつあるんですね。
皆さんも是非、ご自身の目で「山本かんすけ」を確認してみてはいかがでしょうか!?
山梨県立博物館のホームページはこちらです!
※文書によって「菅助」や「菅介」と書き方が変わっています